マイケルジャクソン裁判と日本の裁判員制度
少年に対する虐待や性犯罪など10の罪に問われていたマイケルジャクソンの無罪が確定した。
(無罪だから、マイケルジャクソンさんと言うべきか?)
アメリカの陪審員制度では、判断が全員一致となるまで結論を出すことはできず、今回、女性陪審員が男性の倍以上いたにも関わらず、「証拠不十分で無罪」という事態に相成った。
ただし、無罪となった理由は検察側が十分な証拠を挙げられなかったせいで、マイケルが「実際になにもしていない」という判断がなされたわけでもなさそうだ。
ただ、陪審員の意見の中には、「被害者の母親の印象が悪かった」などというものもあり、原告である親子は、「有名人から金をとろうとした」という詐欺の疑いまでかけられているらしい。
判断の中に、「印象」という直感的感情的要素が多分に含まれている。
このニュースを見て、改めて心配になったのは、2009年にも始まる日本の裁判員制度だ。
ご存知の通り、我が日本でも、殺人事件の裁判に一般市民が裁判員として参加し、罪の有無や刑期を判定する制度がスタートする。
ある日突然、裁判に参加する旨を命令され、正当な理由(病気など)なく拒否すれば、罰則を科される可能性もある。
私は裁判員制度反対派だ。
もしも自分に裁判員の召集が来たら。
まず、純粋に、時間を奪われるのが嫌だ。
裁判員制度に時間を取られている間、私の代わりに誰が仕事をやってくれるのだろう。
個人事業者にとって、仕事の時間を奪われることは、直接お客様への信頼失墜につながる。
「今、私、裁判員なので」
という理由で、締切日までに仕事を終わらせないなどということが通用するものだろうか。
お客様が離れていくだけだ。
裁判員制度では、それなりの日当(7000円くらいらしい)を支払うと言うが、日当に換算できない「信頼」についてはどのように考えてくれるのだろうか。
さらに、殺人事件などというものに関わりたくはないのだ。
有罪無罪を決定する際、有罪にすれば被告に恨まれるだろうし、無罪にすれば原告に恨まれる。
どっちみち、誰かに恨まれるようなことを、やりたくはない。
だからこそ、弁護士という仕事を選んでいないのだ。
仕事として行う裁判であれば、その判定を行うことが、次への信頼につながる。
次の仕事の確保につながるわけであり、敏腕弁護士と言う名声も得られるわけだ。
だが、市民の義務に「次へのつながり」はない。
誰かに憎まれる身の恐怖を請け負わなければならない一方で、実入りはない。
キャリア形成に役立たない。
そして、裁判員に選ばれた場合の守秘義務がまた、きついんではないだろうか、と思う。
守秘義務がある以上、この経験を他のなにかに生かすことはできない。
たとえば、このブログに「裁判員経験レポート」を載せることもできない。
それどころか、夜、旦那に今日経験した刺激的な事柄について話すこともできない。
うちではけっこうフランクに、お互い、今日感じたことを開陳しあうことで夫婦関係を保っている。
旦那がもし裁判員に選ばれたならば、私は興味津々で、どうにかしてその体験談を語らせようとするだろう。
だが、語ってしまえば、それは守秘義務違反となり、罪になるのだ。
今回のマイケルジャクソン裁判、一般市民である被害者が、有名人のマイケルジャクソンに対して起こしたものだ。
被害者の母親は、単に陪審員の心象を損なったために不利になった。
誰もが顔を知ってるような有名人、さらに心象を良くするプロであるような芸能人(ミュージシャン)に一般市民が心象で勝つのは難しい。
日本の裁判員制度でも似たようなことが起こるであろうことは容易に想像できる。
有名人ではなくても、被告がいわゆるエリートな職業だった場合と無職であった場合。
著しく外見が劣っていた場合。
学歴や職業、さらには出身地など。
日本の社会にはまだまだ偏見が存在する。
さらに全員一致という条件。
早く終わりたいばかりに多数意見に迎合する人間も出てくるだろう。(日本の制度は、全員一致ではないが)
法律についてプロでない人間に裁判ができるのならば、司法試験なんて必要なくなるはずである。
断固、裁判員制度に反対したいが、一市民の私の声はそれほど広範に届かない。
だから、自分が裁判員に召集された場合の、合法的な抜け道を模索するばかりである。

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