Aug 12, 2005

夫婦の在り方

昨日から3夜連続で日経夕刊に、「夫婦の在り方」が問われている。
第1日目は、マーケティングアナリストの三浦展氏へのインタビューだ。

彼は恐れ多くも発言する。
「意識調査をすると夫が働いて妻が専業主婦という男女分業型の夫婦の方が、共働きより夫も妻も生活満足度が高いという傾向がある」
「夫婦二人して働いて、暮らしにゆとりはないけれど幸せと言い切れるような満足度の高いモデルがあればいいのだが、今のところ見当たらない」

根拠はなんだ?
何の意識調査だ?
ソースは?
え?

そのくせ、定年後に旦那がいつもリビングにいるようになれば妻は息がつまるから、熟年夫婦のリフォーム需要では、「夫の書斎をつくる」が、夫婦ともに望むところであるらしい。
定年した夫には、職場でも家庭でもない中間地帯が必要だと述べ、趣味でもいいが、社会貢献や起業をすることを勧めている。

2日目は、脚本家の山田太一氏へのインタビュー。
妻は働く夫の現状を理解していない。
そのため夫への風当たりがきつく、評価も厳しくなる。
妻が昔働いていた「会社」と今の成果主義でストレスの多い「会社」は違う。
夫の閉塞感をうけとめ、「定年後は離婚」などと息巻かずに、離婚を思いとどまるべきだという意見だ。
引用すると、
「今は情報が入りすぎ、必要ない人まで啓蒙されている」
「昔はもっとひどい夫婦もあった。それでも、そんなものだろうと問題を意識せずに人生をまっとうした。夫婦という当たり前の単位に、意味や向き合い方を意識せざるをえないことは不幸なのだから、夫婦なんてそんなものとあきらめて、今までの人生を無駄にしない選択をするのも価値がある」
というような言論。

どちらの意見からも伺えるのは、「妻の我慢で、夫婦関係は好転する」ということだ。
夫婦関係を良くするためには専業主婦になれ。
夫婦関係を良くするためには諦めが必要だ。

こんなのを、今更特集する日経新聞。
少子高齢化の時代になんつうことを言うのだよ、という感が拭えぬこともない。
妻が(もしくはお互い)が諦めることで表面上の波風がたたないことを本気で「良い夫婦」だと思っているんだろうか。
この記事を書いた筆者の、悲しい夫婦生活が目に浮かぶようである。

鶴保庸介参議院議員。
野田聖子さんの旦那さんだ。
立ち読みした婦人公論の記事によると、家を建てるとき、
「うちは台所必要ないです。使わないから」
と、台所無しの設計を考えたらしい。
野田さんが結婚するとき
「私は料理は作れないけど、法律は作れるよ」
と言ったからだ。
不動産屋さんに
「台所がないと、もし売ることになったとき、売れませんよ」
と言われて仕方なく台所も造ることを承諾したらしい。

郵政民営化議論のとき、反対派の急先鋒である妻と毎晩討論しながら、派閥への筋を通すなどの事情もあって賛成に投票した。
「限りなく反対に近い賛成です」
と言って。

反対派議員には対抗馬を、などという事態になっている昨今、鶴保議員は派閥を脱退した。
「妻を応援する立場になりますので」
ということで。

私が憧れるのは、三浦さんや山田さんの言う、
「あきらめを知ってお互い干渉しない夫婦」
よりもこっちだな。
鶴保さんと野田さんの夫婦は、二人して(究極に)働いているけれども、幸せと言い切れる夫婦なんじゃないかな、と、ちょっと羨ましい。

●鶴保庸介ホームページ 
http://www.tsuruho.com/
●野田聖子ホームページ
http://www.noda-seiko.gr.jp/

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Nov 06, 2004

憲法改正を軽視していると

憲法24条とは、
「家族生活における個人の尊厳と両性の平等」
1.婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
2.配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚ならびに婚姻および家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。
という内容だ。
現在推進されている「憲法改正論議」では、有名な9条だけでなく、この24条も、改定の俎上に上がっている。
自民党の憲法改正プロジェクトチームは「個人優先の風潮が、公をないがしろにしている。家族を優先するべきだ。」という論調が主流らしい。

家族の優先=個人の優先、のような気もするが、そんなに甘くはない。
この改正論議が目指すものは、「男女平等の見直し」だ。
女性の利己主義が、少子化を生んだ。そのため、男性も男らしくなくなり、国のことを案じて立ち上がる(軍隊になる)男が減った、という論理だ。
ものすごく単純に言えば。

だから、家族のあり方を見直し、なにがなんでも男女平等という風潮を見直し、家を守る女と、その女子供を守るため、お国のためなら軍隊を辞さない男性を育成しようという本音が見え隠れする自民の主張。

この論理から言えば、子産みや介護は女性の義務という形になるらしい。
戦後、現在のお仕着せ憲法が、日本を誤った方向に導いたという考え方が主流のようだ。

自民党憲法改正プロジェクトチームの論点によると、婚姻・家族における両性平等の規定(24条)は、家族や共同体の価値を重視する観点から見直すべきであるという論調になる。
つまり、個人よりも集団、家族が大事。
国防は男性の義務となり、それを支える私的な領域は女性の義務になるという。
私的な領域とは、親の介護などを当然に女性が受け入れるという意味だ。

怖い。
利己主義な私から見れば、当然に長男の嫁だからといって親の介護を押し付けられるのは嫌だ。
私は仕事が好きだし、そういうことに向いている。
旦那にだって、家計に関する負担はほとんどかけたことはないという自負もある。(いや、全部私が養っているというわけではなく、割り勘を貫いてきたというか)
だけど、家事能力は、あんまりないかもしれないし、家事があんまり好きでもない。
私が家事に専念するよりかは、仕事をしている方が、社会の利益は大きいと思う。
先日の古館IQ番組でも、東大生平均に勝った。

女だからって、自分に向いていない役割分担をみすみすこなさなければ憲法違反になるのか。
いやだ。そんな世の中。

世間が大嫌いなジェンダー軍団が、以下のようなプロジェクトを立ち上げたそうだ。
私は、参加しようと思っている。
http://blog.livedoor.jp/savearticle24/
賛同金はこちらね。
http://blog.livedoor.jp/savearticle24/archives/cat_306324.html

最後に。
もし旦那が軍隊にとられそうになったら。
うちでは私が攻撃して半身不随にしてやることにしている。
旦那は、半身不随と軍隊どっちがいいかなあ、と二者択一に迫られている。

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Aug 13, 2004

「ジェンダーフリー」使用禁止

今日の産経新聞の記事(WEBで見た)によると、東京都教育委員会が「ジェンダーフリー」という言葉の教育現場での使用を禁止、男女混合名簿の作成も禁止すると決めたそうだ。
「ジェンダーフリー」という言葉は定義がいろいろあり、誤解や混乱が生じることを排除するために、使用禁止ということになった。
極端な論調として、ひな祭りを否定したり、女子は赤い服をと言うのは差別だ、などの論調も出たらしい。
そのため、今回、この言葉の使用を禁止という措置に踏み切ったそう。
名簿も、男女別々にしないといけないということになったそう。

「ジェンダー」という言葉は、後天的に作り上げられた社会的な性別意識であると私は理解している。
生物としての男女差である「性差」とは区別して考えるべきであり、たとえば「男性がスカートをはいてると変」などというのが後天的に信じ込まされた男女差だ。
スポーツなどであれば、種目にもよるが、明らかに生物差からくる男女差というものはある。
それらを混同して「体育も男女一緒に教育すべき」などという論調には無理があるとは思う。
「男女参画」と「男女を同一視する」は別のことだ。
東京都教育委員会の決定は、この「男女同一視」の思想に対して警鐘をならしたものだ。
最近の東京都教育委員会の活躍には感心する。
先日は日の丸君が代問題で、たくさんの教師を処分したらしい。
すごい、権力のある組織なのだ。

しかし、この決定、私は非常に危険を感じる。
ジェンダーフリーを推奨する人の中には極論に走る人がいるのは事実だ。
だが、今回の決定は、そのような「危険思想」に対抗するふりをして、本来の「男女参画」意識までも否定する形に発展する可能性がある。
第一、言葉の使用はともかくとしても、ついでに「名簿も男女別々」と強制していることに危機感を感じる。
男女混合名簿は危険思想なのか?

小学校から高校まで、思えば名簿は男女別々に並べられていた。
だが、社会に出てから目にする名簿といわれるものは、男女別々にはなっていないような気がする。
まあ、最近はパソコンで管理するから並び順というものもあやふやになりつつあるが、顧客名簿などを男女別に並べた経験は自分はない。
このサイトの人たちが知っている「消費生活アドバイザー合格者リスト」だって、都道府県別、あいうえお順になっていて、男女の区別はしていない。
政府の委員会なんかの名簿だって男女に分けているものは見たことない。
以前勤めていた会社での社員リストは支店ごとだった。

過激派フェミニストを排除するふりをして、実は、徐々に徐々に、区別する必要のない部分まで、男女の区別をはびこらせていこうという魂胆なんではないか。
名簿は社会的な性別意識であり、生物学的な性差とは関係ないものだ。
こういうところまで区別を推進していくと、行動や趣味など後天的な事柄にまでいちいち「男のくせに」「女のくせに」と口出しをする社会になる。
長髪の男性も大勢見かけるこの時代、行過ぎた統制には声をあげるべきかも、と思った。


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Jul 12, 2004

男女の役割

今日の日経夕刊に興味深い記事があった。
「性別役割分担を支持する人が減った」という内容だ。
以前に比べ、「女性は子供ができたら仕事を辞める」という考え方を支持する男性が減ったという。
家計が苦しいので、妻にも仕事をしてほしい、という意見だ。
けれども、実際の家事分担はどうなっているかと言うと、掃除や食器洗い、洗濯や食事の支度など8割程度の家庭が、妻の役割と答えているらしい。
仕事はすべきと言われ、それなのに家事負担の主役は依然として妻、というのでは、まあ女性としてはあんまり良い条件であるとは言えない。
そこで女性は結婚後の負担増を敬遠し、非婚・晩婚に走るという。

実際、こういう状況は、けっこう良くあることだと思う。
うちなんか、もろ、このまんま。
しかし、冷静に結婚前に、結婚後のこのような負担増を想像し、結婚に躊躇する現代の適齢期女性は賢くなった。
私などは、なにも考えずに結婚したし、考えてみれば私の時代(S40年生まれ)、「結婚しても働いていい?」なんて旦那に承諾をとるような妻も多かったのだ。

「男女の特性を無視してはいけない」という意見もある。
先日の荒川区男女共同参画条例制定の委員長になったセンセイは、フェミニストが大嫌いで、「男女の性差を否定するのはいかがなものか」という考えをお持ちだ。
性別だって神様から与えられたもの。
それぞれの特性や得意分野を無視して、なにがなんでも同等にすることが果たして幸せなのか、という点で頷ける部分はたしかにある。

しかし、性別役割分担を支持する、否定するを論じる以前の問題として、「性別役割分担」の定義が気になる。
料理や掃除、食器洗いやごみ出し、洗濯や風呂掃除、そして仕事をすることは、性別役割分担なんだろうか。
本来の性差を考えた場合、女性が料理や掃除をやって男性が仕事をすることが「性別役割分担を行っている」ということになるのだろうか。

料理や食器洗いやごみ捨てみたいな事柄は、生きていく上で、いつか必ずやらなければならないことだ。
その頻度は人によって多少異なるかもしれないが、社会に生きる人間の教養としては、ごく基本的な部分。
生命力とも言える部分だ。
性別役割の問題ではないはずだ。
生活をするために、お金が必要で、それを稼ぐために仕事をするということも、当然生きるための基本の部分だ。
これだって、性別役割分担などと言い出すのは大げさだ。

戦争に兵隊で行く、とかそういうレベルの話になると、女性向きではないかも、とは思うが、現代の世の中での性別役割は、所詮こんなものだ。
甘えているからこういうことを言う。甘えられる相手がいるからこういうことを言えるのだ。
それは甘えられる側から言えば、ときに「度がすぎる」のかもしれない。だから論争が起きる。

全ての男女が、性別役割分担に適応するわけではない。
料理がすきな男もいれば、残業で夜遅くなる女もいる。
より得意なことを、より好きなことを、より時間がある方がやれば良いのだ。
一方の役割と決めるわけではない。その日、余裕がある方がやれば良いのだ。
それが一番シンプルで、ストレスの少ないすごし方なのではないか、と思う。
肯定するにしても否定するにしても、世間は少し、性別役割に敏感すぎるぞ。

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